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5月, 2020の投稿を表示しています

若手社員の昇降格に「ディスタント・アセスメント」を活用した事例

あるクライアントでは、当社サービス「ディスタント・アセスメント」をご活用いただいている。この企業では、管理職の昇降格には集合研修形式(アセスメント・センター方式)のアセスメントが実施されているが、それを経験の浅い層の昇降格判断に用いるには、色々とそぐわない点がある。 まず、何と言っても大きい要因は人数の多さである。経験の浅い社員層の中で、上司から昇降格を推薦された人は毎年100人前後であり、アセスメント・センター方式ではかなりのコストがかかる。また、同方式は2日間のプログラムであることが多いため、参加者が通常の仕事を抜け、交通費をかけて1ヶ所に集まり、宿泊や食事の費用も考慮に入れると、非常に高い実質コストになり得る。 アセスメント・センターがそぐわない点は、それがフォーカスするのが「マネジメント能力」中心である、ということでもある。経験の浅い層にはマネジメントを行っている人もいるし、そうでない人もいる。近い将来に求められていない能力を測ることは、目的からしても公平性からしても、あまり合わない。 後者の理由からインタビュー形式のアセスメントも検討されたそうだ。インタビューなら、マネジメント能力でなくても、コンピテンシーが設定されていれば問題なく能力を測定できる。ただし、1人あたりのコストはアセスメント・センターの半分になるかというと、おそらくそこまで安くはならないだろう。 一番ボトルネックとなるのは、人数の多さから来る、アセッサーの稼働にかかる費用と言える。それを解決するために、「ディスタント・アセスメント」では色々な費用抑制の工夫をしている。 残念ながらその中身を詳細に明かすことはできないが、おそらくアセスメント・センターの参加者1人あたりのコストの1/3以下、実質コストで考えれば控えめに考えても1/4以下ではないかと考えられる。 同時に高いクォリティを保つよう努めている。もちろん、アセッサーの努力の賜物である。ただ、アセッサーにとっても、このアセスメントをすることがとても勉強になり、また、楽しいものでもある。 もちろん、「ディスタント」(遠隔)とある通り、受検者は自宅でもどこでも、つまりどこかに集まらなくても実施できるものでもある。 ただ、「ディスタント・アセスメント」も万能ではない。システム的に処理する検査類などのアセスメントに比べればコストは高いし、精度の担保

テレアセスメント、あるいはリモートアセスメントの小さくないリスク

2020年の新型コロナウィルスの影響から、テレワーク、リモートワークが一気に広がり、当然のことながら、アセスメント(人材評価)にもソーシャルディスタンスが求められている。 元々が遠隔でもできるアセスメントは数多く存在しており、心理学用語でいう「検査」の類い(例えば、性格検査、適性検査)は、元々、受検者が一人で自分について選択式で答えることが多いので、ウェブで実施できるものも多い。 難しいのは、どちらかといえば、社内、組織内の人事(昇降格や異動など)や人材育成に用いられるアセスメントである。(全てではないにしろ、)性格検査や適性検査は人材採用で応募者に対して実施する方が向いている。なぜなら、昇降格を性格や適性だけでは判断できないからである。学力や知能を測定する検査にも同じことが言える。 かといって、上司評価だけに頼るのも多かれ少なかれリスクがあり、「そもそも、全ての上司が公平に見ることができるのか?」という問題が伝統的にある。ちなみにそれは360度評価でも基本的には同様である。 したがって、社内・組織内の人事・人材育成に用いられるようなアセスメントでは、集合研修のような形式をとるものや、面談形式をとるものが多く、ソーシャルディスタンスは保ちにくい。そこで、最近は盛んにそれをウェブ会議システムを通して実施しようとしている話をお聞きする。 当社が提供している「ディスタント・アセスメント」という形式のアセスメントもある。これは「ディスタント」と名付けられていることからもお分かりのように、元々、遠隔で実施することを大前提にして設計されたものである。なおかつ、方法論としては、「自分のことを自分で選択式で答える」ものではなく、インタビュー・アセスメント技術を応用したものなので、社内・組織内でも使いやすいものである。(参考記事:「 若手社員の昇降格に『ディスタント・アセスメント』を活用した事例 」) アセスメントにおいては連続性も重要なので、これまで集合研修形式(アセスメント・センター方式)などでやってきたアセスメントを形式ごと変更することは慎重にすべきことであることは言うまでもない。しかしながら、ウェブ会議システムを通した時に、本当に連続性が保てるのか、という点もまた考慮が必要と言える。 具体的に言えば、アセスメント・センター方式のアセスメントでは、グループディスカッション演習、

離職率の高さとイノベーションの意外な関係性

ある会社が離職率の高さを問題視していた。この会社は、大きな括りで言えば"B to B"のサービス業であり、顧客企業のためにカスタマイズしてサービスを提供している。 厳密に言うと、離職率が他社に比べて飛び抜けて高いかどうかは分からない。そこも問題かもしれないが、むしろもっと重要な問題は、「顧客企業からも感謝されるような、優秀なサービス提供者が次々に辞めていく」ことだそうだ。 辞める理由として本人達が挙げることで最も多いのが、「やりたいことが今後もできそうもない」ということだったという。 こうした現象に対して、少なからず影響を及ぼしているのではないかと私が気付いたのがこの会社の組織文化である。非常に強いトップダウンの指示系統があり、要するに「上の言うことが絶対」であり、いわゆるマイクロマネジメントをしている管理職が多そうに見える。 現に、この会社が私達と共に取り組もうとしている内容にも上位層からストップが何度もかかった。この会社としての事情、歴史、文化、戦略を尊重した上で言うが、「何のためにそんな細かいことを気にしているのか」理解が難しいケースもあった。 このケースの難度は非常に高い。この問題に取り組むプロジェクトのメンバーの方々は非常に問題意識が高く、本気でこのことを問題視していた。しかし、その問題の本質的原因にあるのは組織文化であり、かなり根本的な変革を目指すことを、多かれ少なかれ、意図しようとしまいと、意味してしまう。その挑戦はまず間違いなく、その組織文化によって阻止されてしまう。 組織文化とは、エドガー・シャイン氏の定義に基づいて言えば、「メンバー個々が持ち、組織として共有している暗黙の前提」のことである。組織文化は、人が2人以上集まって特定の目的を果たそうとする場合に、必ず持つものと心理学では認識されている。それは何のためにあるかと言うと、「組織」という幻想を共有し、それを同じ形で持続するためであると考えられる。ある意味、動物には必ずある「種族保存本能」の代替機能であると言えるのかもしれない。転職して全く異なる組織文化を持った会社に移ったことのある方なら、おそらく容易に理解していただけるのではないかと思う。 繰り返すが、組織文化は多かれ少なかれ「組織が同じ形で持続するためにある」ものなので、多かれ少なかれ変化を嫌

新卒採用:「自己肯定感」を測定

ある製造業企業で、新卒採用で「自己肯定感」を測定している。 自己肯定感とは、自分自身を肯定的に捉え、自分の意志や希望に対して前向きに向き合い、その実現のために努力するといった感覚のことを言っている。 元々は、この企業の人事を見ていた部長が、ご自身の経験や社内外での学びから得た知見を基に、自己肯定感を新卒採用における能力要件の最重要項目の1つとして設定することを希望されていた。残念ながら、自己肯定感を測定するアセスメントはさほど多くはなかった。 当然のことながら、自己肯定感が低すぎるのは良くないが、高すぎるのも良いとは言えない。例えば、自身を過大評価して、現実的にできないことまでできるような気がしてしまう、ある意味、いわゆる「中二病」も高すぎる自己肯定感だろう。自分が現実には無力である部分もある程度客観的に把握した上で、「それでも自己を肯定する」とするような感覚とも言える。 ちなみに、自己肯定感は「能力」なのか、というと、判断の難しいところである。自己肯定「感」が、自己肯定「力」でないことからもそれを暗に示しているとも考えられる。能力の場合、本人が意識しようと思えば意識はできることが基本だと考えられる。能力には、トレーナブル(訓練可能)か、アントレーナブル(訓練不可能)かという側面もあるが、いずれも能力と言うことはできるが、これとはまた別である。 自己肯定感は、本人と親との関係性、幼少期から思春期にかけての経験の蓄積が大きな影響を与える社会的性格に属する要素だと考えられる。「性格」に近い要素になると、本人が意識して変えようとしても、不可能ではないが非常に難しいことになる。そう考えると「能力ではない」と結論付けたくもなるが、本人が意識して変えようとしても必ずしも理想的な変容ができるとは限らないのは能力も同じである。ただ、理想的な変容かどうかは別にして、能力の方が変えやすい。こうした意味で、自己肯定感は能力なのか、性格なのかというと、極めて微妙である。 話を元に戻すと、この部長は、ご自身の知見から、自己肯定感が本人の幸福実感度とほぼ比例していると考えていた。これは実証されたものではないかもしれないが、合理的である。 これは、私のインタビュー・アセスメント経験からもよく分かる話である。現在の自分がいかに幸福に恵まれた存在かという暗黙の前提があると