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7月, 2020の投稿を表示しています

あなた自身と部下の成長のために② ~STARを使った振り返り

成長のためには「振り返り」が必要であることを『 あなた自身の成長のために① ~成長できる人の2つの条件 』で書いた。 『デイヴィッド・コルブ氏の経験学習モデル("Experiential Learning Theory")というものがあるが、それに当てはめると分かりやすい。経験学習モデルを簡単に紹介すると、人は経験を通して成長することができる。それには4つのプロセスを経ていることが必要で、それは具体的な経験、省察、概念化、実践的試行であり、それは循環する。つまり、何かを経験して、それを振り返り、「こういう時にはこうするといいんだな」とか「こうした方がうまくいくんだな」などと理解し、それを別の機会で試し、そしてまた新たな経験に戻る。 このうち、うまくいかない経験の後、それを省察することによって生まれるのが成長意欲である。つまり本人が行動変容の必要性を感じている状態である。特に人は忙しくなると、省察は抜け落ちる。実践的試行も少なくなる。そうすると経験と概念化だけになるので、要するに仕事も忙しい中で、勉強したり新たな知識を得ているような状況だが、この2つが結び付かないようなケースである。そうすると人は成長しない。』 ここでは、その振り返りをどうやってするかについて書きたいと思う。というのも、振り返りは難しい。振り返りはある程度客観的である必要があるが、人間は誰でも主観から逃れられないからだ。 そこで助けになるかもしれないのが"STAR"という概念である。これ自体は非常にシンプルである。 STARというのはS, T, A, Rという頭文字を取ったもので、それぞれは以下のような意味がある。 Situation:状況…あなたがある一時点で置かれた状況。あなたを取り巻く環境。 Task:タスク…その時点であなたがやるべきだった事柄。ミッション、役割、責任範囲。 Action:言動…その時、あなたが取った行動、言動。 Result:その結果どうなったか。 1つ単純な例を挙げてみよう。営業担当者の方がSTARで省察をするとしよう。Situationは、例えば、 「担当する顧客企業があったが、前任者の時にトラブルがあり、先方から信用されていなかった。」 Task。 「自分が担当することになり、以前は大きな顧客だっただけに、そちらのキーパーソンの方

あなた自身と部下の成長のために① ~成長できる人の2つの条件

人間は誰でも勝手に成長するものではない。もちろん、それはキャリアにおいての成長の話だが、むしろ非常に多くの人が、成長を望んでいないような行動を取ることは、『 人間の「非」成長性と適材「不」適所 』でも書いた。簡単に言えば、口では「成長したい」と言う人の驚くほど多くが、実は「既に持っている能力を使ってより大きな成果を出したい、認められたい」ということを意味していて、それは再現性の高い行動変容を含んでいないのだ。 あるいは、学校に行って、あるいは独学で、場合によっては資格を取るために勉強することが成長だと暗に思っている方もいらっしゃるが、必ずしもそうとは限らない。なぜかというと、知識を増やすことは行動変容とイコールではないからだ。 ではどういう人が成長できるのか。タイトルの通り、2つの条件があると考えられる。もちろん、もっと挙げようと思えばたくさん挙げられるが、つまづきやすいのがこの2つである。 条件1:意外に難しい「成長意欲」 1つは、当たり前なのだが、「成長意欲」である。成長意欲と言っているのは、ここが当たり前でない点なのだが、本人が行動変容の必要性を感じていることである。上記の通り、そういう人は実は多くない。 こういう風な言い方もできる。人間は、通常の状態であれば、上記のように「より大きな成果を出したい、認められたい」し、その前提としては自分が既に持っているものを使いたいものだが、「自分はダメだ」、「このままではやっていけない」などと感じているような、ある程度非常事態になった時にその必要性が出てくる。 デイヴィッド・コルブ氏の経験学習モデル("Experiential Learning Theory")というものがあるが、それに当てはめると分かりやすい。経験学習モデルを簡単に紹介すると、人は経験を通して成長することができる。それには4つのプロセスを経ていることが必要で、それは具体的な経験、省察、概念化、実践的試行であり、それは循環する。つまり、何かを経験して、それを振り返り、「こういう時にはこうするといいんだな」とか「こうした方がうまくいくんだな」などと理解し、それを別の機会で試し、そしてまた新たな経験に戻る。 このうち、うまくいかない経験の後、それを省察することによって生まれるのが成長意欲である。つまり本人が行動変容の必要性を感じている状態で

名リーダーの条件② ~ 教えないこと

ここでは、「教えない」という名リーダーの特長について書きたいと思う。これは『 名リーダーの条件① ~ 普通でないことをやろうとする才能 』でこのように触れたが、 次に、「あまり教えない」ということ。教え魔に名コーチはいない。ほとんどのケースで。これを書き始めると長くなるので、これはこれで別に書きたいと思う。 それがこの記事である。教えないことというのは人の成長の促進…つまり教育には大変重要なことである。 「いやいや、義務教育では、先生は『教えること』しかしてないじゃないか?」という反論があるかもしれない。おっしゃる通り。だから義務教育が問題だらけなのだ。 「いやいや、教えることが身になることもある。『教えない』となると、その機会も奪うことになるじゃないか?」という次の反論があるかもしれない。その通りで、では、どのようなタイミングが「身になる」タイミングか、ということが問題なのである。そのタイミングを全く見ずに教えようとするのが私の言う「教え魔」である。教え魔はこんな風に考える。説明・解説がわかりやすいことが良い教え方だと。これは完全なるプロダクトアウトである。 そのタイミングを見極めずに人に教えた経験は誰にでもあると思う。その結果は「教えたところで何も変わらなかった」ということが多いと思う。私が見てきた限りではあるが、教えているシーンの、少なく見積もっても半分以上はタイミングを見極めていないように見える。 タイミングとはどういう時なのか。『 「人を育てようとすること」の大きな落とし穴 』にこんなことを書いた。 「あなた自身が成長してきた過程を思い起こしてください。あなたは『上司が思った通りに成長しよう』と思って成長しましたか?違うはずです。あなた自身が『こういう能力が自分には必要だ』と思ったから努力してそれを成し遂げたはずです。どう成長したいかを決めるのは本人でしかありません。『上司の意図通りに育てられる』という暗黙の前提が全くの間違いなんです。」 タイミングとは、「本人が必要性を感じている時」である。できれば「痛感している時」である。何回やってもうまくいかない時。どうやってもうまくいかない時。やり方は間違っていないはずなのに結果がついてこない時。どうしたらいいのかわからなくなってしまった時。 こういう状態になるのは、「良くない結果が出てすぐ」ではない。「何回やって

名リーダーの条件① ~ 普通でないことをやろうとする才能

私はスポーツの名将や名コーチが好きで、そのチームの試合を見たり、自叙伝のような本を読むことは趣味と言ってもいい。スポーツと言っても、チームスポーツの球技がほとんど。ただし、純粋な趣味と言い切れないのは、それはリーダーシップの教科書のようなものだからだ。 どういう人が名将・名コーチか、という定義というか条件というのは人によって色々だろうが、好成績を継続的に上げることと、継続的に優れたプレーヤーがその人の下で育つことと私は思う。その2つは相互補完関係にあるが、既に完成されたプレーヤーを集めて好成績を上げることも可能なので、その2つの両方が揃っていることだと考えている。もちろん、そのようなことも簡単ではないと思うが。 ある時、私は「私が思う(競技を越えた)名将・名コーチの共通項って、一体何だろう?」と疑問に思った。そう思うと調べずにはいられなくなった。もちろん、お国を問わず。 まず最初に発見したのは、「人間味を出す」ということだった。もちろん多少の演技や方便もあるだろうし、全ての人ではないが、「自分らしい、一人の人間として存在する」ということだ。偉そうにすることはもちろんあまりないし、何か演技していたり、過度に我慢したり…などといったことをする人は少なかった。 この点は私にとってはちょっと意外で、「あえてプレーヤーとは距離を置く」とか、「威厳を保つ」とか、そういう人がもっと多いかと思いきや、実際にはそうではない人の方がずっと多い。 次に、「あまり教えない」ということ。教え魔に名コーチはいない。ほとんどのケースで。これを書き始めると長くなるので、これはこれで別に書きたいと思う。( 「名リーダーの条件② ~ 教えないこと」 ) この2つを見つけて思ったのは、「名将・名コーチはその人らしくあり、自然体が多くて、あまり教えることがなく、何気なく雑談していることが多い … それって、普通の人だな。他に何かないんだろうか。何か特別な何か…。」 その後、しばらく探していたのだが、共通しているとまで言えることが全然なかった。 しばらくして気付いた。共通項がないし、あっても普通のことということは、「それぞれ独自のやり方でやっている」ということと言い換えられる。物事には原因と結果とがあるが、普通のやり方(原因)をやれば普通の結果が返ってくるわけであって、普通ではない結果を出している人は普通で

「タイプ分けする検査」は矛盾している

世の中には、人をタイプ分けするような試みがある。それがアセスメントのような形で提供されているケースもあるようである。 タイプを先に見せられると、「自分がどれに当てはまるのか?」ということが気になってくる。そして、往々にして、自分が感じること、考えること、行動することを自分で選択するような質問に答える。そうすると「あなたはこのタイプ」と出てくる。 「当たってる!」などという反応。当たり前である。自分で「自分は自分をこう理解している」と思いたい姿について答えているのだから、当たっていると思わなければ、その姿が間違っていることになってしまうのだから。 いわゆる心理テストと似た作りだが、よくある誤解は、心理テストが心理学に基づいている、ということである。そうとは限らない。心理学、あるいはどんなものであれ科学に基づいていれば完璧に正しいかと言えばそんなこともあり得ないが、いずれにしても、自分のことを自分で答えるという方法論は、そもそも、心理学用語で言う「セルフイメージ」と矛盾している。 セルフイメージとは、先に書いた”姿”のことだ。それは得てして、自分が自分がこうだと思いたい姿である。これは実際の言動とはかなりずれることもある。というか、普通は大いにずれる。要するに、自分のことは自分が一番分かっていない、ということである。 まず、自分で自分のことを答えるということが、セルフイメージに孕む主観性を取り除けない、という点がある。 さらに重要なのは、タイプ分けの多くは人の”性格”的な特性を分類していて、それによって仕事上の適性を説明しているが、専門職の適性ならまだ分からないでもないが、リーダーシップのタイプ分けまでしているものを見かける。 専門職であれ、リーダーシップであれ、そのタイプが分かったところでその通りに会社が配置してくれるのだろうか。もし配置されたとしても、その性格に合った状況だけが訪れてくれるのだろうか。リーダーであれば、あるいはプロであれば、自分の性格がどうだから…ということに関係なく、その状況には対応していかなければならない。 市場シェア1位の自社商品をメインに売っている営業部門のマネジャーが、後発の強力な競合が登場してシェアが見る見る減っていき、明らかに競合の商品性が高い時にどうするのだろうか。「すみません、私の性格と合わない状況になったので異動お願いしまーす」な

テレワークによるストレス問題

テレワーク、あるいはリモートワークでコミュニケーション不足になることが指摘されている。そのためにコミュニケーションを”追加”するような取り組みもされていることも多いようだが、それは短期的には必要なことは言うまでもないが、中長期的にはもう少し根本的な部分の変化が必要になってくるだろう。 その話をするために、少々回り道をさせていただきたいと思う。 別の記事*にも書いたが、人間が集団を構成する時に「暗黙の前提」を共有する。それによって「組織の一員になれた」などと実感する。この暗黙の前提の集合を組織文化という。組織文化は組織に固有のものだが、日本に拠点のある組織(つまり日本企業だけでなく外資系企業も含む)はある程度共通して持っている「暗黙の前提」がこのテレワークのコミュニケーション不足問題と関連しているので、日本の文化といってもいいかもしれない。 *   『 離職率の高さとイノベーションの意外な関係性 』    『 リーダーが全員の意識を変えようとする時 ~ 組織文化の変革 』 ここで関係する暗黙の前提とは、「意思決定は、関係者の合意によってされる」という前提である。「そんなこと、当たり前じゃないか」と思われる方もいるかもしれないが、必ずしも当たり前ではないし、当たり前だと思うということは「暗黙の前提」になっている証拠でもある。 ボトムアップ文化の色合いが強い組織ほど、この傾向が強いと言えるかもしれない。ボトムアップ文化とは組織の末端、つまり、いわゆる「現場」が強い発言権を持つことだ。本社側からすれば、何か施策を打ち出す時にはやたらと現場に気を遣ったり、現場に浸透させるのがやたらと説得やら説明やら個別対応やらで難しかったり、時には現場の抵抗でとん挫してしまったり、役員会が部門代表の場だったり…そういう風な現象として現れる。 だからこそ、やたらと「根回し」や「調整」が必要だったりもする。これは残念ながら、1人あたり生産性にも悪影響を及ぼしていることは間違いないだろうし、非常に多くのケースで海外現地法人などから出る「本社は意思決定が遅い」という不満にも繋がっていることも間違いないと言っていい。 しかし、あなたの所属する組織が、例えばオーナー経営者が誰よりも大きな発言権を持つ企業だったりすると、意思決定は速いことの方が多い。そのことからしても、一般的なオーナー経営者が個人で責任を

リーダーが全員の意識を変えようとする時 ~ 組織文化の変革

色々な人にインタビュー(・アセスメント)をしていると、多くのリーダーが「~という風にメンバー全員の『意識』を変える必要がある」ということを言う。そして、得てして、それは結構難しい。 『意識』という概念が簡単に使われるが、人間の心理には意識と無意識があり、意識というのは水上に出た氷山の一角のようなもので、無意識の領域はそれよりも遥かに広いとされている。 常に極めてロジカルで合理的な判断に基づくガチガチの人でも、自身の無意識に、暗黙のうちに大いに影響を受けることがある。その最も影響が大きいものの一つは組織文化であると言える。 組織文化とは何か。別の記事に書いたのだが、それをそのまま書くと、 組織文化とは、エドガー・シャイン氏の定義に基づいて言えば、「メンバー個々が持ち、組織として共有している暗黙の前提」のことである。組織文化は、人が2人以上集まって特定の目的を果たそうとする場合に、必ず持つものと心理学では認識されている。それは何のためにあるかと言うと、「組織」という幻想を共有し、それを同じ形で持続するためであると考えられる。ある意味、動物には必ずある「種族保存本能」の代替機能であると言えるのかもしれない。転職して全く異なる組織文化を持った会社に移ったことのある方なら、おそらく容易に理解していただけるのではないかと思う。 繰り返すが、組織文化は多かれ少なかれ「組織が同じ形で持続するためにある」ものなので、多かれ少なかれ変化を嫌う。だからこそ、変革には抵抗が付き物、ということになる。特に、上位下達の性格が強い組織文化では、意思決定者層から強い抵抗が見られることも多い。「上位下達の性格が強い組織文化」を持つ組織の典型は、軍隊、警察、病院、鉄道などである。彼ら彼女らにとって、上位下達はとても重要なことである。それがスピードと対応すべきことの確実性を担保してくれるからである。 さて、ここでのテーマは組織文化の変革だが、上記の通り、組織文化は原則的に変化を嫌うもので、それは元々「組織が 同じ形で持続するためにある」ものだからである。したがって、組織の中でどれだけ絶大なる権力を持っている人でも、組織文化を変えるのはその性質上とても難しいのである。 目に見える範囲の現象で言えば、「~という風にあなたの意識を変えてほしい。」「はい、わかりました。」という会話をしながら、結局何も変わらない

思考表現とは何か?(ドリル受検対策⑤)

思考表現とは、思考しながらその過程を表現することであり、表現しながら思考を整理し、さらに発展させることである。雑談や友達同士のお喋りのように、何を表現するかを予め決めずにその時々の反応や思い付きで表現する内容を決めることだが、ただし、思考を回転させながらそれをすることである。 したがって、沈思黙考タイプの人は少し苦手かもしれない。自分の中で黙ってじっくり思考し、結論を見つけてから今度はそれをどのように表現するかを考える…というパターンの表現では、ここでは不十分になりやすい。 イノベーションの創出プロセス…そんなに大袈裟ではなくても、何か従来にないものを創り出す要素がある集団での活動の中では、個々人の暗黙知を表現して共有し、形式知にしていく必要がある。1人の個人でやる活動なら自分一人の中でやればいいので共有は必要ないかもしれないし、感覚知で十分かもしれないが、集団となると、言語化や何かしらの表現は必要である。この点については、野中郁次郎氏のSECIモデルをご参考にしていただきたい。 多かれ少なかれ、「弁証法」的でもある。例えば、思考テーマがあり、まずはとりあえずの自分なりの答えを出す。しかしそうすると問題点や矛盾が出てくる。それに対してどう答えるか。こうした自問自答のような対話を繰り返す。 思考というものは、若干比喩的に言えば、自問自答のようなものである。自分で問いを作り、自分で答えを出す。それを発展させていく。どういう内容であれ、どういう方向性であれ、創造的思考を発展させるのがうまい人は、頻繁にこれをやる傾向がある。そうでなければ、基礎発想的なスキルで発案したアイデアでは、非常に薄っぺらくなりやすい。基礎発想はそれでいいのだが、それを十分に発展させ、深化させる必要がある。 私自身は、自分で客観的に見て、これが下手ではない。意識してそうするようにしていて、うまくなってきているのではないかと思う。つまり私が言いたいのは、訓練可能なスキルである。ちなみに、私はここにある記事は全てこの表現方法で書いている。書く内容を予め決めたりしていない。もちろん、大枠でのテーマはあるが、それに対して答えを出し、「自分が読み手だったら」そこで浮かぶ反論を問いにして、話を展開させている。いつの間にか長くなり、いつも何千字という文字を書いてしまう。 思考表現をしている人というのは、文章が長い傾

対策が難しい「人間的影響」(ドリル受検対策④)

受検対策シリーズとして今までに3本書き、ある程度気が済んでいたが、9個中3個しか書かないのもどうかと思い、4本目を書こうと思う。今回は「人間的影響」である。 人間的影響は、「イノベーション人材に求められる人間力」にカテゴライズされる能力要素である。人間的影響とは、「人間としての魅力を出して他者を感化させる」ことである。 わかりやすく言うとリーダーシップでもある。でもあるが、リーダーシップだけではない。人望(これはリーダーシップに近い部分があるが)とか、いわゆる”愛されキャラ”のようなものも人間的影響の一部だろう。(別記事『 測定しにくいイノベーション能力、「人望/愛されキャラ」 』参照) 人はリーダーシップを取る時、大きく分ければ2つの力を使うと言える。1つはポジションパワーであり、1つは人間としての魅力である。ポジションパワーとは、役職によって与えられた権力やその他の力を指している。例えば、肩書が付いていることで「その人の言う通りにしよう」と思わせる力である。社長とか部長とか課長とか、CEOとか理事長とか書記長とかチェアマン(ウーマン)とか。あるいは過去の実績や、知られている組織や人の威を借ることとか。 ちなみに、ポジションパワーを使うのは当たり前と言えば当たり前だが、それだけの人というのがいる。芸術分野でさえこれが横行している。例えば、ミュージシャンの紹介をよく聞いてみると、音楽そのものの紹介とは全く無関係で、ポジションパワーを使いたいだけのことが非常に多い。元何とかというバンドでブレイク、何々という曲がチャートNo1ヒット、誰々も絶賛・共演、とか。音楽そのものは実質的に、完全に過去の他人のヒット曲の焼き直しだったりすることも多い。呆れ果てる。 それだけでない力によって人に影響を与える、自発的に行動を起こしてもらうのがこの「人間的影響」である。 イノベーション人材が他者に感化させることや影響を及ぼすことが必要なことは比較的わかりやすいが、なぜ「人間としての魅力を出」すことが含まれるのか? 他の記事でも書いているので繰り返しで恐縮だが、イノベーションというものは「結果論で」イノベーションと呼ばれるのであり、それが産み出されるプロセスにおいては、いたとしてもごく僅かな人数だけがそれをイノベ

上位概念化とは何か?(ドリル受検対策③)

イノベーション人材に求められる能力には色々ある。しかし「最低限これだけは共通して必要だ」というものは少ない。「我事化」や「知的好奇心」などといったところだと考えられる。しかし、それ以外では、「あればあるほどいい」し、「なければ始まらない」というわけでもない。 イノベーション人材に求められる能力というと、「創造性」「創造力」「クリエイティビティ」といった能力を一番先に思い起こす人が多いようだが、重要であることは間違いないが、唯一絶対の一番重要項目かというと、そうとは限らない。 私達は創造性のような能力を「(イノベーション人材に求められる)知的能力」に分類しているが、その一方で「(イノベーション人材に求められる)人間力」というカテゴリーもある。どちらの方が重要と言うことは難しいが、人間力が必要条件で、知的能力が十分条件のようなものだと考えられる。つまり、人間力は「なくてはならないもの」に近いが、それだけでイノベーションが起こせるわけではなく、その上に知的能力があって初めて実現できる可能性が出てくるわけだが、だからと言って保証されているわけでもない。人材育成やアセスメントに携わる者として、これほど難しいものはない。「難しい」と書いて「おもしろい」と読むのだが。 さて、そうした知的能力の中で重要なものの1つが「上位概念化」である。知財分野ではよく使われる用語でそこから転用したものであるが、意味は多少なりとも違う。上位概念化は知的能力の中でもとても難度が高く、これができる人というのはたくさんいるわけではない。少なくとも日常生活や一般的な職業の通常業務ではなかなか育ちにくい。 それでも重要なのは、特に「イノベーション・プロデューサー」の役割に特にこの能力が求められるからだ。(『 イノベーション創出の最重要人物:「イノベーション・プロデューサー」 』参照) 上位概念化とは、認識した具体的事象から抽象化し、上位概念を取り出すことである。上位概念とは、本質、構造、真の目的、共通性などのことで、どれも表面に現れて来ない。だから認識しづらいし、疑おうとも思わない。 例えば、テニスというスポーツにおいて、目に見えやすいのは試合結果や、ゲーム中の選手の動き方、表情などといったところだろうか。そうした段階を、一段上位概念化すると

イノベーションを阻害する切迫マネジメント

イノベーション創出のためのマネジメントと、効率的作業組織の維持とそれによる問題解決のためのマネジメントはまるで違う部分がある。シンプルに言えば、前者では、余裕と切迫のバランスを、余裕重視にした方が適しているが、後者では切迫重視にする方が適していると言える。 別の記事『 イノベーションの試みのうち8割がこの「失敗パターン」にはまる~① 』シリーズでは、4回目に『 イノベーション失敗パターン④:【効率的作業組織 vs イノベーション創出組織】 』という記事があり、その2つのタイプの組織の違いについての詳細はご参考にしていただきたいが、チームマネジメントのやり方としては余裕と切迫の振り子が重要で、効率的作業組織なら「普段は切迫、時々余裕」なのかもしれないが、イノベーション創出組織なら「余裕中心、ところどころで切迫に振る」というイメージだ。 余裕重視マネジメントでの切迫とは、例えば、時々「この挑戦で5年後の営業利益10億を目指してるんだったよね?忘れてない?」とリマインドするようなことであり、切迫重視マネジメントでの余裕とは、昔で言えば、時々「ノミュニケーション」でガス抜きをするようなことが一例である。 ただし、現実には、「あなたのチームはイノベーション創出組織、あちらのチームは効率的作業組織」などと明確に分けられていないことの方が圧倒的に多い。効率的作業組織が、その業務の傍らでイノベーション創出を求められていることの方が多いのではないか。 切迫中心のマネジメントとは、極端に言えば、イソップ寓話「北風と太陽」の北風のマネジメントとも言えるかもしれない。 私は他の記事でも何度もこのことを書いているので繰り返し読んだ方には申し訳ないが、この点が気になっている。というのは、近年の日本企業の全体的な傾向として、イノベーションを追求しようという企業は多く見えるものの、切迫中心から余裕中心になりつつあるかというと、むしろその逆だからである。 というのも、1990年代の国内外の経済危機、2008年以降のリーマンショックと、その前後にあったコンプライアンス/ガバナンス重視などを背景に、切迫重視は徐々に強化されてきている。何かネガティブな大事件をきっかけに「社内の統制をより厳しくする」という打ち手は心理的には理解できるが、その弊