スキップしてメイン コンテンツに移動

名リーダーの条件② ~ 教えないこと


ここでは、「教えない」という名リーダーの特長について書きたいと思う。これは『名リーダーの条件① ~ 普通でないことをやろうとする才能』でこのように触れたが、

次に、「あまり教えない」ということ。教え魔に名コーチはいない。ほとんどのケースで。これを書き始めると長くなるので、これはこれで別に書きたいと思う。

それがこの記事である。教えないことというのは人の成長の促進…つまり教育には大変重要なことである。





「いやいや、義務教育では、先生は『教えること』しかしてないじゃないか?」という反論があるかもしれない。おっしゃる通り。だから義務教育が問題だらけなのだ。

「いやいや、教えることが身になることもある。『教えない』となると、その機会も奪うことになるじゃないか?」という次の反論があるかもしれない。その通りで、では、どのようなタイミングが「身になる」タイミングか、ということが問題なのである。そのタイミングを全く見ずに教えようとするのが私の言う「教え魔」である。教え魔はこんな風に考える。説明・解説がわかりやすいことが良い教え方だと。これは完全なるプロダクトアウトである。

そのタイミングを見極めずに人に教えた経験は誰にでもあると思う。その結果は「教えたところで何も変わらなかった」ということが多いと思う。私が見てきた限りではあるが、教えているシーンの、少なく見積もっても半分以上はタイミングを見極めていないように見える。

タイミングとはどういう時なのか。『「人を育てようとすること」の大きな落とし穴』にこんなことを書いた。

「あなた自身が成長してきた過程を思い起こしてください。あなたは『上司が思った通りに成長しよう』と思って成長しましたか?違うはずです。あなた自身が『こういう能力が自分には必要だ』と思ったから努力してそれを成し遂げたはずです。どう成長したいかを決めるのは本人でしかありません。『上司の意図通りに育てられる』という暗黙の前提が全くの間違いなんです。」

タイミングとは、「本人が必要性を感じている時」である。できれば「痛感している時」である。何回やってもうまくいかない時。どうやってもうまくいかない時。やり方は間違っていないはずなのに結果がついてこない時。どうしたらいいのかわからなくなってしまった時。

こういう状態になるのは、「良くない結果が出てすぐ」ではない。「何回やってもうまくいかない」とか、「やり方は間違っていないはず」、「どうしたらいいのかわからなくなる」ぐらい試行錯誤を繰り返している時である。

そういう時に、すっと手を差し伸べる。そこで学ぶことというのは、スポンジのように吸収されることが大半である。

この試行錯誤が大事なのは、「自分で考えて実行し、その結果が自分自身に返ってくる」という状態を基本にすべきだからである。すぐに教えようとすることで、仮にすぐ本人がその通り実行しようとしても、自分で考えなくなる。実行して結果が伴っても「自分自身の結果」だとは思えない。達成感もなければ悔しさも自信になることもない。

相手に考えさせる前に教えようとしてしまうこと。わかりやすく、淀みなく、綺麗に説明できると満足感に溢れた表情を浮かべる”教育者”。そういう方を何人も見てきたが、申し訳ないのだが、その行動は教育者として大失格である。それは相手のためではなく、自分のためだからである。

ただし、遅すぎると、諦めが入ってくる。こうなると完全に自信や興味を失ってしまうので、介入するのはそれより前である。

名リーダーの条件① ~ 普通でないことをやろうとする才能』に書いたことだが、名将や名コーチ、名リーダーは、そんなに頻繁には教えようとせず、プレーヤーをじっくり見ている。それは、おそらくタイミングを見ている、ということもあるはずである。

それから、「わかりやすく、淀みなく、綺麗に」教えることにある勘違いは、「自分で掴みとったんだ、自分で解決したんだ」という実感を奪うという点でもある。名コーチの多くは、ヒントしか教えない。何も教えずに「それなら誰々に聞いてみたら?」とだけ言う人もいた。

人は壁にぶつかった時、自分で考え、自分で解決すべきなのである。その解決をリーダーがしてあげるのは甘やかしに他ならない。たとえリーダーが考えて解決してあげたとしても、それを見せるべきではない。お膳立てして本人が掴み取ったように見せてあげるべきである。もしそれを見せている人がいたら(そういう人は山ほどいるが)、それも相手のためでなく、自分のためにやっていることである。

名リーダーは、多くのケースで、厳しい人であり、しかも愛情があり、その下で人がよく育つ。それはなぜかと言えば、決して教え魔になっていないし、自分のアピールではなく、真に相手の成長のためのことをしてあげるからである。


宮田 丈裕 (当社代表)




※この記事は、引用・リンクは自由にしていただけます。
ただし、当社の会社名、記事の著者名を引用していただくことと、
どのようなサイトなどのメディアで取り上げるかを
当サイトの「お問い合わせ」から当記事タイトルと共にご一報いただくことを
条件とさせていただいております。




このブログの人気の投稿

知的好奇心とは何か?(ドリル受検対策②)

イノベーション人材に求められる能力 のうち、最も基本的で重要なものの一つは「知的好奇心」である。他にも「我事化」を 別記事 で挙げたが、「見たことがないものを見た時に知的好奇心が強まり、それを基にして我事化する」ことがなければ、イノベーションのその人自身のきっかけがなくなってしまう。 何度も言うようだが、世に言われるイノベーションは結果論である。それが創り出されるプロセスにおいては、それが多くの人のライフスタイルや常識を変えてしまうようなものになるとは、関係者全員が思っていないかもしれない。つまり、関係者にとっても「見たことがない」もので、「は!?何これ???」…言語化すれば、根底にパラダイムシフトを含んだものでもあったりするかもしれない。従来の枠組みや視点や価値観ではどうにも理解しようがないものかもしれない。 その時に発動させるべきものが知的好奇心である。「は!?何これ???」に続いて「面白そう…」とつぶやく精神と言ってもいいかもしれない。 イノベーション人材の能力は、「自分自身をイノベーション人材だと位置付けたい人」や「会社にイノベーション人材だと認定された人」だけに役立つものではない。「自分はイノベーション人材ではない」という人にとっても、基本的能力があると、周囲で起きるイノベーションの試みをむやみに否定しなくなる。これもとても重要なことだ。 知的好奇心とは、経験のない物事に対して興味を持つ心理的プロセスである。なぜ「好奇心」だけではなく、「知的」好奇心と言っているかというと、好奇心は高等動物全般が持つ、本能に基づくと思われるもので、「知的」が付くと人間特有のものになり、本能に基づかずに思考や心理メカニズムによって興味を持つことだからである。 好奇心は高等動物全般が持っているものと言ったが、そうであるとすれば、知的好奇心は人間全般が持っていてもおかしくないことになる。実際、ご存知の通り、特に人間の子供の1才から3才ぐらいの時期には、知的好奇心が強くて何でも触ったり食べたりしようとするので、むしろ危ないことも多いほどである。3才~6才ぐらいでは、「なんで?」という質問を連発したりする子も多い。 しかし、大人の人たちに「あなたは、自分が好奇心旺盛だと思いますか?」と尋ねると、実際に研修や講演で訊くのだが、「いいえ」と答える人はおそらく半分以上だ。あなた自身はどうだ

社員の顧客視点の劣化は会社にとって命取り

これを書いている今のつい数時間前の話だが、日本の某新聞社が、自社の電子版の広告キャンペーンをやっているのを目にした。そこでは、その新聞電子版のサブスクリプションを止めると「ビジネス実践力がつかない。つけるためには継続が大事。」というような内容を訴求していた。 私は甚だ疑問なのだが、これは何か証拠でもあるのだろうか。継続した人のグループと継続しなかった人のグループで、その人たちのビフォーとアフターとの差に有意な差があったとでも言うのだろうか。百歩譲って差があったというなら、本当にどんな職種においてもその差があると言えるものなのだろうか。 私がこう反論するのは、確信に近いものがあるからだ。まず関係ない。論理的に考えれば関係あるはずがない。「ビジネス実践力」をどう定義するかにもよるが、わざわざ「実践力」を切り取っているのだから、思考面は含めないと考える方が自然である。そうだとすると、人を動かしたり心を動かしたりする感受性を含めたコミュニケーション面や、他者と信頼関係を構築するところや、信頼関係を構築する過程でのパーソナリティの面、あるいは専門的なテクニカルスキルの面が主に関連してくる。新聞の電子版を読み続けると、コミュニケーション能力やパーソナリティやテクニカルスキルなどが上がるのだろうか。そうだとしたらその合理的な理由は一体何なのか。 二百歩譲って、「ビジネス実践力」には思考面やその前提知識も含まれているとしよう。そうだとすると、例えば私が関わらせていただくことの多い「経営視点」を養成するのに新聞を使うことはできる。簡単に言えば、「自分がその記事の当事者の立場だったとしたら、何を感じ、何を考え、どう解決しようとするか」を想像し、できるだけ多くの状況設定や選択肢を想定することで擬似経験の幅や当事者意識の強さを広げたり高めたりすることができるからだ。しかし、「新聞(の電子版)を読んでさえいれば自動的にビジネス実践力(なるもの)が伸びる」わけではない。そういう意図を持って読む必要があるからだ。 いや、広告では「自動的に伸びる」とは言っていない。私がわざわざこんな文章を書いてまでこの広告を問題視しなければならないと考えたのはそこに関係している。「サブスクリプションを止めると伸びなくなる」というような表現をすることで、少し大げさに言えば「脅し」ているわりに「自動的に伸びる」ことは

『人を育てようとすること』の大きな落とし穴

一般的に「人材育成」というものは非常によく語られる。後進の人を育て、組織や技術や社会がそれによって維持され、発展していくことは言うまでもなく素晴らしいことである。 しかしながら、私自身が、とてもありがたいことに非常に多くの人の成長のために仕事をしてきたこともあって、こんな風に考えている。人材育成はそもそもとても難しいものだし、それどころか「不可能」だと考えた方がいい。もちろん、人には急成長するようなことがある。しかしそれは本人が成長したのであって、上司や先生や親が育成したからでは(少なくとも直接的には)ない。 「育成しよう」とすると色々と落とし穴がある。非常に多いのは、自分が経験してきたことを相手に押し付けることである。私の友人が親(多くは父親)としてお子さんに、自分がやっていたスポーツ競技や趣味をやらせたり、通っていた学校に入学させようとしたり、ということも多いのだが、私はこういうことに大反対である。何を考えているのか、と思う。 全員ではないと願うが、多くのお子さんは本当に気の毒である。親からの「期待」という名のエゴを強制的に受けさせられ、「育成」という名のもとにお子さん本人の自由を奪い、経験のチャンスの幅を狭めてしまう。もちろん、それが結果的に良い結果を産むことは十分にあり得る。しかし、それは本人が自分自身を納得させ、成長を目指したからであって、その環境を与えた親のお陰では決してない。そもそも、本人が自分で好きなことやものを見つけ、それを自分から言い出し、そこで夢中になって成長を目指すことの大事なプロセスを親のエゴが奪っている。 これはあくまで一例でしかないが、「育てよう」とする側の人は要注意なのである。「育てる」というのは、あくまで「成長の手助け」であって、主人公はあくまで本人である。育てる側の人が主体となって、意図した人間を作ろうとすることは、場合によってはできることもあるが、それは先ほどの例と同じで、本人が本気で成長しようと志して努力した結果でしかない。誰かを「育てよう」とした経験がある方なら多少なりともご理解いただける部分があるかと想像するが、他人(当然、血のつながった子供も含む)は自分が意図した通りには変化してくれないことの方が圧倒的に多いものである。 親だけの話でもない。私がコーチとしてお会いした新任管理職(着任後、半年~1年ぐらい)の8~9割は、「