研修で人が成長するかと言うと、まず無理だ。研修のファシリテーターをやっている私がそういうのもどうかとも思うが、真実だし、あまりにも世の中にそこを公言している人が少ないのであえて言いたい。
もちろん、全ての研修で、全員が成長することがあり得ない、と言っているわけではない。ただ、研修を企画された方々は往々にして、参加者全員が成長することを期待していらっしゃる。まず一旦、全員が研修で成長なんかできないと諦めた方がいいと私は考えている。そこから初めて、「じゃあ少しでも効果を出すためにどうするか?」「成長を促進するために、研修以外に何をしたらいいのか?」という視点が出てくる。
この視点が重要なのは、「研修をやれば社員の成長効果が出るはず」という日本企業(だけではないと思うが)にある伝統的な暗黙の前提が明らかに間違っていることが多いからだ。
その前提がどうやってできたかと言えば、明治時代以降に作られた会社において、あるいは第2次大戦後の日本企業において、海外との情報ギャップが大きく、海外にあって日本にない知を採り入れる場として確立されたと思われる。今、そんなギャップが大きく存在するだろうか。
また、そうした時代の日本では、第1次産業(農業・漁業など)から第2次産業、あるいは第3次産業に移ってきた従業者が多かったわけで、戦後の「集団就職」はその象徴である。その従業者たちの多くは高等教育を受けていなかったこともあり、内容は高等教育とは違うにせよ、知識教育は重要だったと言える。今、研修参加者で、そういう人がどれだけ存在するだろうか。
つまり、単純化して言えば、知に飢えた時代だった。学べる知は途方もないほど存在していて、それが飯を食っていくために必要不可欠な時代だった。そして、学べば学ぶほど、それが直接的な理由ではなかっただろうが、自分ができる仕事が増え、その質が上がり、給料は上がり、生活はみるみる良くなって安定し、社会全体も同様だった。という時代だった。
もうお分かりの通り、現代の日本は既に全然違う世の中である。先進国は多かれ少なかれ似た状況にある。私の実感値としては、中国人の参加者の多くには、そういう時代の日本がそうだったのだろうが、「ギラギラ」がある。
私があらゆる教育において最も重要だと思うのは、この「ギラギラ」や「飢えている」状態である。それが全く望めない状態で研修を実施するなら、どんなに中身を工夫しても、そこから学びを得て、フルに活用し、その経験を通じて成長していく人はまずいないだろう。
一般的な日本企業での現状はどうか。昇格をしたら、あるいは何年目になったら、自動的に受講しなければならない研修がある。あるいは、「上司推薦」で参加させられる。実際に行ってみると、役に立たないわけではないが、「ずっと欲しかった知や技術」がそこにあるかと言えば、ない。
さらには、研修と言えばそういう退屈な経験ばかりなので、『そこそこ良い受講態度を見せながら、退屈極まりない時間をやり過ごす術』だけが磨かれていく。本来業務は忙しいから、研修の時間がもったいないと感じるか、良い休暇と捉えるか。大きく分ければそのどちらか。別に研修を受けたところで、仕事と関係しないわけでもないが、役に立つほどでもない。そもそも、仕事で向上してもみるみる生活が向上することなんて稀。だって、既に生活水準はとても高いのだから。
ここで研修担当者が勘違いしがちなのは、「社員にはこれを学ぶことが必要だ」という思いを、受講者ニーズと勘違いすることである。「君達に必要なんだから研修を企画してあげた」という典型的なプロダクトアウト性。別の記事にも書いたが(「『人を育てようとすること』の大きな落とし穴」)、成長というのは誰かがその人に成長してほしいから実現するのではない。あくまで、本人が必要だと思うから成長(行動変容)を目指そうとする。
したがって、研修ファシリテーターとしては、もちろん内容にもよるが、非常に多くの研修で、最初にその「必要性について一人一人に納得してもらう」ためにかなりの時間と労力を割かなければならない。
私の受講者としての経験から言えば、心から学んでよかったと思えた研修はたった1つだけである。インタビュー・アセッサーのトレーニングだったのだが、私はそれを受ける前からインタビュー・アセスメントを実施していた。それでどうやってもうまくいかないことに悩み、本当に苦しんでいた。その状態で受ける研修は、涙が出るほど感動的だった。つまり、「空腹は最良の調味料」である。ただし、これ以外には残念ながらなかった。
では、研修には意味がないのか? ない。即刻やめた方がいい研修は本当に多いと思う。時間と金の無駄でしかない。講師や研修企画者が「教えたいから教えている」のでしかなく、参加者が本当に学びたいことなのかというと、そうではないケースが圧倒的に多い。繰り返しになるが、プロダクトアウトである。
ちなみに、多くの企業には研修を担当する部署が存在する。物事には目的と手段というものがあるが、こうした部署は手段を目的化した組織とも言える。そこのリーダーやメンバーは、懸命に良い研修をしようと考え、努力している。しかしそれはあくまで「手段」でしかない。他の手段がいいのかもしれないが、部署の存在意義からして、そこまで遡って考えることはほとんどないのである。それは上位層の思考的怠慢であるケースが多い。
ただ、研修という機会をうまく利用する方法はある。それは、参加者同士の関係深化と、擬似的な困難の場にすることである。それはまた別の記事で書きたいと思う。
宮田 丈裕 (当社代表)
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