人間は誰でも勝手に成長するものではない。もちろん、それはキャリアにおいての成長の話だが、むしろ非常に多くの人が、成長を望んでいないような行動を取ることは、『人間の「非」成長性と適材「不」適所』でも書いた。簡単に言えば、口では「成長したい」と言う人の驚くほど多くが、実は「既に持っている能力を使ってより大きな成果を出したい、認められたい」ということを意味していて、それは再現性の高い行動変容を含んでいないのだ。
あるいは、学校に行って、あるいは独学で、場合によっては資格を取るために勉強することが成長だと暗に思っている方もいらっしゃるが、必ずしもそうとは限らない。なぜかというと、知識を増やすことは行動変容とイコールではないからだ。
ではどういう人が成長できるのか。タイトルの通り、2つの条件があると考えられる。もちろん、もっと挙げようと思えばたくさん挙げられるが、つまづきやすいのがこの2つである。
条件1:意外に難しい「成長意欲」
1つは、当たり前なのだが、「成長意欲」である。成長意欲と言っているのは、ここが当たり前でない点なのだが、本人が行動変容の必要性を感じていることである。上記の通り、そういう人は実は多くない。
こういう風な言い方もできる。人間は、通常の状態であれば、上記のように「より大きな成果を出したい、認められたい」し、その前提としては自分が既に持っているものを使いたいものだが、「自分はダメだ」、「このままではやっていけない」などと感じているような、ある程度非常事態になった時にその必要性が出てくる。
デイヴィッド・コルブ氏の経験学習モデル("Experiential Learning Theory")というものがあるが、それに当てはめると分かりやすい。経験学習モデルを簡単に紹介すると、人は経験を通して成長することができる。それには4つのプロセスを経ていることが必要で、それは具体的な経験、省察、概念化、実践的試行であり、それは循環する。つまり、何かを経験して、それを振り返り、「こういう時にはこうするといいんだな」とか「こうした方がうまくいくんだな」などと理解し、それを別の機会で試し、そしてまた新たな経験に戻る。
このうち、うまくいかない経験の後、それを省察することによって生まれるのが成長意欲である。つまり本人が行動変容の必要性を感じている状態である。特に人は忙しくなると、省察は抜け落ちる。実践的試行も少なくなる。そうすると経験と概念化だけになるので、要するに仕事も忙しい中で、勉強したり新たな知識を得ているような状況だが、この2つが結び付かないようなケースである。そうすると人は成長しない。
私が他の記事でも書いていることを繰り返して恐縮だが(『「人を育てようとすること」の大きな落とし穴』)、人を育てようとしている人の多くが、本人のこの成長意欲を見ていない。教えれば行動変容するものだと勝手に前提にしてしまっていることが多い。中には、自分の話を聞かないことに怒りだしたりする人までいる。学校などのスポーツ指導でコーチがやたらと威圧的に生徒や学生に当たるのを何度も見聞きしたことがあるが、それはこれを象徴する例だろう。
人が成長するということは非常事態なのである。だから「人間は誰でも勝手に成長するものではない」のである。成長というのは、「望ましいとされる行動が取れるようになること」だが、ということはつまり、その時点での自分は「望ましくない行動しか取れないと分かっている」ということになる。成長という概念の定義から、「その必要性を感じている」ことがうっすらと含まれているのである。
非常事態だからこそ苦しいし、だからこそ誰もそのような状態が常にあることを望まない。望ましいとされる行動が取れて「やったー!嬉しい!」というゴール地点が待っているはずだと思えるからなんとか成長プロセスを踏めるようなものである。
条件2:自己客観視
もう1つの成長の条件とは、先ほどの省察と関係するが、「自己客観視」である。つまり自分を客観的に捉えることだが、これも誰でも自動的にできることではない。自分を捉えることは基本的には主観でしかできないからだ。
それよりもさらに大きな問題がある。「自己客観視したくない」問題である。無意識であることも多いと思うが、自分自身を客観的に見ることには誰にだって怖さがある。すごくダメなところが見えてしまうことを怖れるからである。見た目にコンプレックスがある人が鏡を見ることを怖がるのは不自然なことではない。1つめの成長意欲と同様、誰にとっても簡単なように見えて、実は苦しいことである。
しかし、たまにこういう方がいる。自分が何かをした後、一部始終を見ていた他人に「自分はどうだった?」と訊く。あるいは、私がインタビュー・アセスメントの面接者をした時にも、ほんの数%の人だが、「ぜひフィードバックをもらえませんか」とおっしゃる人達。このように、目撃者に自分がどうだったかを尋ねることは自己客観視の有効な方法である。
また、振り返りの対話もいい。相手が目撃者でなくても、起こったこと、そこで自分がやったことを細かく話していくのを相手に聞いてもらう。「なぜそういう風にしたのですか?」、「なぜこういう風にはしなかったのですか?」など、素朴な疑問や、「おや?」と思う点を質問してもらうといい。私がインタビュー・アセスメントをしている時にも時々いるが、喋っているうちに自分で気付くことがある。後から「喋っていて気付いたのですが、私はここが弱かったですね。」などと。こういうことも優れた自己客観視である。
自分一人でやるなら、将棋などの「感想戦」に近いものをやるといい。感想戦とは、将棋などの試合の後に、最初から全ての手を再現し、その試合の振り返りを行うことである。何かに文章として書いていくといいだろう。その時に注意したいのは、まずは事実を中心に押さえることである。つまり自分の言動である。他人から見て、自分は何をしたのか、何を言ったのか。できるだけ忠実に再現するといい。挙げた事実に対して、どういう意図があったのか、どういう気持ちだったのか、なども付け加えるといいだろう。その際には「STAR」という方法論を知っておくと便利だが、それは別の機会に書こうと思う。もちろん、録音や録画ができる機会があれば自分で録っておいてそれに基づいて感想戦をするのもさらにいいかもしれない。
自己客観視をしたいのだけれども、自分を客観視することに怖さを感じる方には、ぜひこのことを理解していただきたいと思う。心理学では、自分が自分をどう見ているかという像を「セルフイメージ」と呼んでいるが、セルフイメージは客観的に見た時の自分とは多かれ少なかれずれるものである。それが普通だ。それがなぜ起こるかというと、「自分はこうだと思いたい」という欲求があるからである。「思いたいように思いたい」のである。誇大妄想的なセルフイメージもあれば、明らかに過小評価の(良く言えば謙虚な)セルフイメージもあるが、どちらも同じで、自分が思いたいように思っている結果である。
だが、どう思いたいと思っていようとも、他人からはそう見えているとは限らない。他人から見た自分が真の自分である。自分から見た自分が真の自分ではない。どっちにしろ、他人からは自分の真の姿はもう既に見えている。自分の声を録音したものを聞くのと同じで、初めは過剰に反応してしまうが、そのズレも含めて慣れてくるものだ。
あなたが育てる側の立場にいるなら、この2つの条件をよく見て、それを高めるチャンスを提供することが大事だ。成長意欲が低い人には、少し難しいミッションを与えて壁にぶつけてあげることだ。育てる側の立場にいるぐらいだから、おそらく「彼・彼女にこれをやってもらったら、ここで壁にぶつかるだろう」という想定ができるはずだ。最悪の事態にはどう介入して対処するかだけは用意しておいて、壁にぶつけさせるといい。また、自己客観視が弱い人(≒主観が強い人)には、先ほどの対話相手や感想戦の相手をやってあげるのもいいだろう。
人生は成長の旅
ここまで読んでいただくと、成長するということが意外にもハードルが高く、努力と時間を要求するもので、一種の能力であることがお分かりいただけたかもしれない。人は、まず成長を望んでおらず、そして望んだとしても決して簡単ではないものだ。
それでも申し上げたいのは、簡単ではないから喜びも大きいということだ。簡単にできる”なんちゃって成長”ではなく、大きな成長…もし自分がスマートフォンだったら、写真やアプリを追加するような成長ではなく、OSを変えてしまうような成長を、これを読んでいただいた方にはぜひしていただきたいと心から思っている。
ついでにもう一つ申し上げたいのだが、年齢によって成長できなくなるということは一切ない。その根拠はシンプルで、成長とは行動変容だからだ。体が大きくなることだけではないからだ。高齢になると成長できないと信じて止まない方は、そうやって諦めているから成長しないか、成長したくないからそう信じたいのかのどちらかだろう。もちろん、行動変容のスピードは同じ人でも年齢によって差があるかもしれないが、人間は何歳になっても成長できることは付け加えておきたい。
(続く)
宮田 丈裕 (当社代表)
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