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イノベーション実行人材の2タイプ:「実験家」と「遂行家」



イノベーション人材には「構想人材」と「実行人材」の2種類があり(『イノベーション人材の2タイプ:「構想人材」と「実行人材」』参照)、後者の実行人材には「イノベーション実験家」と「イノベーション遂行家」の2種類がある。

「実験家」の話の前に、上記の別記事で書いたが、イノベーション実行人材とは、「単純化して言えば、構想人材が考えた構想に対して、「それ、面白いかもしれない!」と思い、その実現のために自分でも工夫をしながら前進させていく人である。」





イノベーション人材というと、主に私達がイノベーション構想人材と呼んでいる人材のことを指すことが多いが、イノベーション実行人材もとても重要である。

また、イノベーション人材というと、研究開発に携わっている人のことを指すことも多いが、彼ら彼女らも大変重要だが、重要なのはそうした人材だけではない。ありとあらゆる職種でイノベーションは関係し得る。

例えば、イノベーション創出を目指して新商品を開発したとする。そのためにイノベーション人材を集めて開発したとする。しかし、その後工程で、製造方法や販売の方法、マーケティング戦略や知財戦略でもイノベーション創出のための協力がなければ難しい。後工程の人たちはイノベーション人材ではなくてもいいのだろうか。そこが「イノベーション実行人材」に私達が込めている主張である。その例で言えば、例えば営業担当者が、その商品を「面白い」と思い、「これはチャンスがあるぞ」と感じ、「こういうタイプの顧客にこういう訴求方法で紹介してみよう」という工夫は、イノベーション創出プロセスの一部であることは間違いない。



イノベーション実験家


上記の例のような「イノベーションの構想を実現するために、こういうことを試してみよう」と思い立って実行する人が「イノベーション実験家」である。

繰り返しになる部分もあるが、研究開発部門の技術者は往々にしてここである。必ずしも構想家ではないかもしれない。

もっと言えば、日本企業におけるイノベーションの試みは、「イノベーション構想」がないことがしばしば(おそらくほとんど)である。典型的なのは、研究開発部門に新技術のシーズから目新しい商品を開発させることだ。そこにはイノベーション構想がない。イノベーション構想とは、既存市場の一要素を上位概念化し(≒そもそも論で疑い)、「こうした方が遥かに良いものができるんじゃないか?」という仮説を作ることである。実際、イノベーションと呼ばれる事例には、画期的な新技術が開発されたとまでは言えないケースが非常に多い。

はっきり言おう。構想がないイノベーションは、しょぼく終わる。構想があれば成功するという確証もないが、構想のないイノベーションはあくまで「改善」である。それはそれで素晴らしいが、それはシューペンタ―氏の言うイノベーションではない。

何度も書いていることだが、イノベーションというのは結果論である。結果論というのは、結局のところ、顧客が決めるのである。顧客が「これは今までになかった。こんな手があったのか。これは確かに、今までのものよりも飛躍的に価値が高い。」と、商品という提案に対して強く賛同して、英語の方がぴったりな言葉があるのでそれを使えば "buy-in" して、生活スタイルごと変えてしまうようなことである。

そのような価値提案は、顧客の視点がなければ発想し得ない。経営学では散々「顧客重視」がうたわれるが、イノベーションでもそれは変わらない。

したがって、新技術の開発そのものはイノベーションではない。イノベーション構想の実現のために必要なら、そのために開発するものである。目的と手段を入れ替えることはできない。どちらかと言えば、古い技術を新しい使い方をした方がいい。

こうした文脈で、イノベーション構想の実現のために色々と工夫し、実験し、最適解を見つけていくのがイノベーション実験家である。重要な人材だが、構想があってこそ活きる。


イノベーション遂行家


同様に、イノベーション遂行家も重要人材である。構想まではできないかもしれないが、イノベーション実現のためには必要不可欠である。しかも構想家や実験家と違って、人数が必要なケースも多い。決して軽視されるべきではない。

しかも、将来の構想家かもしれない。長期的な視点に立てば、貴重な経験になり得る。

イノベーション人材のピラミッドの中では最下層だが、誰にでもできることではない。実験家と同様に、「その構想は面白い。自分の仕事の中でもこういう風にしたら貢献できるかもしれない。」という発想が必要である。

文字として見ると簡単に見えるが、実際には、「変化への抵抗」として現れることが多い。あるいは「自分とは関係のないこと」として無視するか。「忙しい」、「面倒臭い」として迷惑がるか。

したがって、我事化と知的好奇心が必要である。この2つは重要な要素なので、別の機会に書こうと思う。



宮田 丈裕 (当社代表)




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