役職はどうあれ、実質的にマネジメントをやっている人々が口をそろえて言う言葉はたくさんあるが、「適材適所」はその1つである。
これも創造性のトレーニングになるが(別記事「創造性とは、伸ばせる能力なのか?」参照)、そういう言葉は「もしかしたら、逆も真なのではないか?」と疑ってみると、新たな視点が得られることがある。「適材適所」もその1つである。
つまり、「適材『不』適所」が真である、ということだ。
「適材適所」が間違っていると言っているわけではない。それが原則としてあることに変わりはないだろう。しかし、「本当にそれだけでいいのか?」ということである。
行動科学者であるモーガン・マッコール教授によれば、人は成長と相反することを好む、と言う。私が色々な人を見てきた中で、これは的を射ていると思う。
どういうことか? まず、「成長したい」という内容のことを、言葉では言う人は多い。しかし「成長」という言葉が意味していることが「より大きな成果を上げること」であることが多い。これは私とっては非常に意外だったのだが。行動科学や心理学の分野で言う成長とは、様々な定義があるが、「好ましい(とされる)行動を取れるようになること」であり、たまたま1回できることではなく、再現しようと思えばできるようになることを意味している。この2つの「成長」には大きな隔たりがある。真逆である、と言ってもいい。
なぜ真逆なのか? 「より大きな成果を上げること」を目指すことは素晴らしいことだ。しかし、全員ではないが、そういうことを思っている人達のうちの多くが「自分の得意なことをすることで」より大きな成果を上げること「で、さらに認められること」を暗黙のうちに前提としているのである。「得意なことをやって認められたい」…もっと言えば「今、既に持っている自分の能力を使って認められたい」のである。これには行動変容の前提はないか、小さいと考えられる。ただし、もちろん、「自分はまだまだだ」と思っていて、好ましい行動変容をして大きな成果を上げることを目指すという、ハイブリッドの人もいるが、本心から行動変容を望んでいる人はどうやら少ない。
「『人を育てようとすること』の大きな落とし穴」でも書いたが、いくら上司が「この部下はこの弱みを克服しなければならない」と思っても、本人が(少なくともすぐには)なかなかその通りに成長していかない。それは、そもそも、本人が行動変容を望んでいないから、という背景もあることが多いのである。
私が「もしかしたら、適材『不』適所が真なのではないか?」という仮説を設定した時、こうした人間の『非』成長性と直観的に繋がった。
「本人が行動変容を望む時」というのはどういう時か? 本人が成果を出すために必要な行動が取れていないと悟り、それを解決したいと思った時である。それはどういう時か? 一言で言うなら、「壁にぶつかった時」である。スポーツ選手で言えばスランプや、新しいチームに移籍した時の試合出場のための模索だ。このために適材『不』適所の必要がある。
(「不」適材適所も悪くはないが、そもそも、何の適材でもない「不適材社員」が少なからずいるとしたら、会社として問題である。)
つまり、本人の既存の得意な力を発揮させ、認められさせてあげるのが「適材適所」であり、人間の基本的な志向性はそこにあるので「適材適所」が原則であるべきである。でなければ、チーム全体としての短期的成果は下がってしまうかもしれない。ただし、適材適所だけでは人は成長しにくい。メンバーの成長がなければ、チームとしての長期的成果も苦しくなっていく可能性がある。
そこで上司のご登場である。こここそが上司の腕の見せ所である。壁にぶつけてあげるのである。
マネジャーの方々にインタビュー・アセスメントをすると、何回も、自分が「適材適所」でメンバーを配置したことを強調する人が時々いる。こうした人達は、メンバーに対する成長促進力が低く、短期志向性が高い確率が実に高い。
メンバーの成長を促すために適材不適所を、適材適所にブレンドさせること。短期成果を追求することだけがミッションのマネジャーならそんなことをする必要はないが、そうでないなら、これは必要不可欠と言っていい。
さて、壁にぶつかったらどうするか? 「そのタイミングで言って聞かせる」のとはちょっと違う。それはまた別の機会に書きたい。
宮田 丈裕 (当社代表)
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