ある製造業企業で、新卒採用で「自己肯定感」を測定している。
自己肯定感とは、自分自身を肯定的に捉え、自分の意志や希望に対して前向きに向き合い、その実現のために努力するといった感覚のことを言っている。
元々は、この企業の人事を見ていた部長が、ご自身の経験や社内外での学びから得た知見を基に、自己肯定感を新卒採用における能力要件の最重要項目の1つとして設定することを希望されていた。残念ながら、自己肯定感を測定するアセスメントはさほど多くはなかった。
当然のことながら、自己肯定感が低すぎるのは良くないが、高すぎるのも良いとは言えない。例えば、自身を過大評価して、現実的にできないことまでできるような気がしてしまう、ある意味、いわゆる「中二病」も高すぎる自己肯定感だろう。自分が現実には無力である部分もある程度客観的に把握した上で、「それでも自己を肯定する」とするような感覚とも言える。
ちなみに、自己肯定感は「能力」なのか、というと、判断の難しいところである。自己肯定「感」が、自己肯定「力」でないことからもそれを暗に示しているとも考えられる。能力の場合、本人が意識しようと思えば意識はできることが基本だと考えられる。能力には、トレーナブル(訓練可能)か、アントレーナブル(訓練不可能)かという側面もあるが、いずれも能力と言うことはできるが、これとはまた別である。
自己肯定感は、本人と親との関係性、幼少期から思春期にかけての経験の蓄積が大きな影響を与える社会的性格に属する要素だと考えられる。「性格」に近い要素になると、本人が意識して変えようとしても、不可能ではないが非常に難しいことになる。そう考えると「能力ではない」と結論付けたくもなるが、本人が意識して変えようとしても必ずしも理想的な変容ができるとは限らないのは能力も同じである。ただ、理想的な変容かどうかは別にして、能力の方が変えやすい。こうした意味で、自己肯定感は能力なのか、性格なのかというと、極めて微妙である。
話を元に戻すと、この部長は、ご自身の知見から、自己肯定感が本人の幸福実感度とほぼ比例していると考えていた。これは実証されたものではないかもしれないが、合理的である。
これは、私のインタビュー・アセスメント経験からもよく分かる話である。現在の自分がいかに幸福に恵まれた存在かという暗黙の前提があると、他者や状況に対する感謝・尊重や、その貴重さの理解が深くなりやすい。詳しくは別の投稿で書こうと思うが、創造性も高まると考えられる。一方で、現在の自分が持っていないものに着目する度合いが強くなればなるほど、その状況にストレスを持ちやすくなり、例えば、他者が自分のためにやってくれることも「当たり前」にしやすくなる。さらに、不足しているものを将来得たとしても、そこで幸福を実感できずに苦しむ度合いが強くなる。かなり単純化して表現しているが、大まかに言えば、このようなメカニズムが人間にはある。
もちろん、他者に馬鹿にされて、「なにくそ」という反骨心で大きな成果を成し遂げることも十分あり得る。このようなケースは、幸福実感度が高いとは言えないかもしれないが、それはそれで素晴らしいことであり、とても人間的である。
いずれにしても、「幸福実感度が高い人と一緒に仕事したい」という想い、あるいは「幸福実感度が高い人同士で仕事を前に進めていってほしい」という想いを、人材採用の基準に反映させることは十二分に理解できるし、それは採用側の自由度であるし、さらには先進的と言えるかもしれない。
当社はこれを自由記述・自動判定で判定する方法を実現したわけだが、このような独自の想いや仮説が採用側にあることは非常に素晴らしいと考えている。人材採用のためのアセスメントは、非常に画一的になっているのが現状である。それが会社側の独自性に繋がるからである。
さらに言えば、このような想いや仮説が企業理念と結び付いているとさらに理想的だと思われる。この部長のケースでは、企業理念と結び付いていた。理念から直接的に導き出されたものではないが、そこに部長の独自な解釈も入っているという点でも、素晴らしい事例である。
宮田 丈裕 (当社代表)
自己肯定感とは、自分自身を肯定的に捉え、自分の意志や希望に対して前向きに向き合い、その実現のために努力するといった感覚のことを言っている。
元々は、この企業の人事を見ていた部長が、ご自身の経験や社内外での学びから得た知見を基に、自己肯定感を新卒採用における能力要件の最重要項目の1つとして設定することを希望されていた。残念ながら、自己肯定感を測定するアセスメントはさほど多くはなかった。
当然のことながら、自己肯定感が低すぎるのは良くないが、高すぎるのも良いとは言えない。例えば、自身を過大評価して、現実的にできないことまでできるような気がしてしまう、ある意味、いわゆる「中二病」も高すぎる自己肯定感だろう。自分が現実には無力である部分もある程度客観的に把握した上で、「それでも自己を肯定する」とするような感覚とも言える。
ちなみに、自己肯定感は「能力」なのか、というと、判断の難しいところである。自己肯定「感」が、自己肯定「力」でないことからもそれを暗に示しているとも考えられる。能力の場合、本人が意識しようと思えば意識はできることが基本だと考えられる。能力には、トレーナブル(訓練可能)か、アントレーナブル(訓練不可能)かという側面もあるが、いずれも能力と言うことはできるが、これとはまた別である。
自己肯定感は、本人と親との関係性、幼少期から思春期にかけての経験の蓄積が大きな影響を与える社会的性格に属する要素だと考えられる。「性格」に近い要素になると、本人が意識して変えようとしても、不可能ではないが非常に難しいことになる。そう考えると「能力ではない」と結論付けたくもなるが、本人が意識して変えようとしても必ずしも理想的な変容ができるとは限らないのは能力も同じである。ただ、理想的な変容かどうかは別にして、能力の方が変えやすい。こうした意味で、自己肯定感は能力なのか、性格なのかというと、極めて微妙である。
話を元に戻すと、この部長は、ご自身の知見から、自己肯定感が本人の幸福実感度とほぼ比例していると考えていた。これは実証されたものではないかもしれないが、合理的である。
これは、私のインタビュー・アセスメント経験からもよく分かる話である。現在の自分がいかに幸福に恵まれた存在かという暗黙の前提があると、他者や状況に対する感謝・尊重や、その貴重さの理解が深くなりやすい。詳しくは別の投稿で書こうと思うが、創造性も高まると考えられる。一方で、現在の自分が持っていないものに着目する度合いが強くなればなるほど、その状況にストレスを持ちやすくなり、例えば、他者が自分のためにやってくれることも「当たり前」にしやすくなる。さらに、不足しているものを将来得たとしても、そこで幸福を実感できずに苦しむ度合いが強くなる。かなり単純化して表現しているが、大まかに言えば、このようなメカニズムが人間にはある。
もちろん、他者に馬鹿にされて、「なにくそ」という反骨心で大きな成果を成し遂げることも十分あり得る。このようなケースは、幸福実感度が高いとは言えないかもしれないが、それはそれで素晴らしいことであり、とても人間的である。
いずれにしても、「幸福実感度が高い人と一緒に仕事したい」という想い、あるいは「幸福実感度が高い人同士で仕事を前に進めていってほしい」という想いを、人材採用の基準に反映させることは十二分に理解できるし、それは採用側の自由度であるし、さらには先進的と言えるかもしれない。
当社はこれを自由記述・自動判定で判定する方法を実現したわけだが、このような独自の想いや仮説が採用側にあることは非常に素晴らしいと考えている。人材採用のためのアセスメントは、非常に画一的になっているのが現状である。それが会社側の独自性に繋がるからである。
さらに言えば、このような想いや仮説が企業理念と結び付いているとさらに理想的だと思われる。この部長のケースでは、企業理念と結び付いていた。理念から直接的に導き出されたものではないが、そこに部長の独自な解釈も入っているという点でも、素晴らしい事例である。
宮田 丈裕 (当社代表)
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