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社員の顧客視点の劣化は会社にとって命取り

これを書いている今のつい数時間前の話だが、日本の某新聞社が、自社の電子版の広告キャンペーンをやっているのを目にした。そこでは、その新聞電子版のサブスクリプションを止めると「ビジネス実践力がつかない。つけるためには継続が大事。」というような内容を訴求していた。

私は甚だ疑問なのだが、これは何か証拠でもあるのだろうか。継続した人のグループと継続しなかった人のグループで、その人たちのビフォーとアフターとの差に有意な差があったとでも言うのだろうか。百歩譲って差があったというなら、本当にどんな職種においてもその差があると言えるものなのだろうか。





私がこう反論するのは、確信に近いものがあるからだ。まず関係ない。論理的に考えれば関係あるはずがない。「ビジネス実践力」をどう定義するかにもよるが、わざわざ「実践力」を切り取っているのだから、思考面は含めないと考える方が自然である。そうだとすると、人を動かしたり心を動かしたりする感受性を含めたコミュニケーション面や、他者と信頼関係を構築するところや、信頼関係を構築する過程でのパーソナリティの面、あるいは専門的なテクニカルスキルの面が主に関連してくる。新聞の電子版を読み続けると、コミュニケーション能力やパーソナリティやテクニカルスキルなどが上がるのだろうか。そうだとしたらその合理的な理由は一体何なのか。

二百歩譲って、「ビジネス実践力」には思考面やその前提知識も含まれているとしよう。そうだとすると、例えば私が関わらせていただくことの多い「経営視点」を養成するのに新聞を使うことはできる。簡単に言えば、「自分がその記事の当事者の立場だったとしたら、何を感じ、何を考え、どう解決しようとするか」を想像し、できるだけ多くの状況設定や選択肢を想定することで擬似経験の幅や当事者意識の強さを広げたり高めたりすることができるからだ。しかし、「新聞(の電子版)を読んでさえいれば自動的にビジネス実践力(なるもの)が伸びる」わけではない。そういう意図を持って読む必要があるからだ。

いや、広告では「自動的に伸びる」とは言っていない。私がわざわざこんな文章を書いてまでこの広告を問題視しなければならないと考えたのはそこに関係している。「サブスクリプションを止めると伸びなくなる」というような表現をすることで、少し大げさに言えば「脅し」ているわりに「自動的に伸びる」ことは明言しないというのは、あまりにもアンチ顧客視点であり、その点に呆れているからだ。

もし根拠なくその訴求をしているなら、それは企業側(と広告代理企業側)の願望に過ぎない。「自社の新聞電子版を読み続けるとビジネス実践力が上がるといいなぁ。…もしそうだとすると」という前提条件が隠れている。自社が顧客メリットの「そうだといいなぁ」という願望的仮説を顧客に示して、押し付けて、そのどこに顧客視点があるのだろうか。私はこの会社が心から心配になる。組織的な顧客視点の欠落は命取りになりかねない。

非常に残念なことに、こういう広告が増えているように私は感じる。数えたことがないし、昔と比較したことがないから「感じる」としか言えないが。その代わりに他の例を挙げるなら、アルコール飲料の広告で、あまりにも人気を博してその商品の売場に買い求める人が殺到するシーン。そんなのは企業側の願望に過ぎない。あるいは、ハイブリッド自動車の広告で、一言目に「給電性能の確かさにときめく」などと訴求する企業は、顧客にそうあってほしいという願望を押し付けているだけに見える。少なくとも私はそんなものにときめかないし、人だかりがあっても特定のアルコール飲料を買い求めようとするのはちょっと考えられない。(それはコロナ禍でソーシャルディスタンスを重視するとか、そういうのがなかったとしても、だ。)そんな非現実的なことをわざわざ媒体を使って広告で顧客に訴求するのは、どう考えても企業側と広告代理企業側の願望を押し付けているようにしか見えない。

三百歩譲って、企業側と広告代理企業側が「そういう訴求が顧客の心に響くのではないか」ということを本気で信じ、そうした仮説のもとにそうした広告を製作しているのだとしたら、繰り返しになるが、顧客視点の劣化について、真剣に人材課題として取り上げるべきだ。

私は時々、顧客企業の経営リーダー候補者向けにマーケティング研修を実施させていただくこともあるが、私が特に強調するのは「顧客理解の難しさ」である。私達は全般的に、顧客のことを簡単に勘違いした思い込みをしやすい。知っているつもりになりやすい。顧客の表面(例えばデモグラフィー)だけを捉えて満足し、理解したと思い込みやすい。マーケティング戦略を練り込もうとするなら、正確な顧客理解が大前提になる。顧客理解が間違っていればどんなに練り込まれた戦略でも単なるゴミに過ぎない。

私は非常に厳しい言い方をしているかもしれないが、その一方で、現代のビジネスピープルに同情しなければならないのは、「ニーズの多様化」の問題である。ニーズが多様化すればするほど、マーケティング施策の考案者は「自分にはないニーズ」について深く理解しなければならない。自分も強く持っているニーズに基づいて企画するなら比較的やりやすいとは思うが、自分にはなく近くの家族や友人にもなく、「どこかの一部の他人」について理解するのは容易いとは言い難い。実際、先ほど例に挙げた分野は、新聞電子版(情報サービス)、アルコール飲料、自動車だが、どれも共通しているのは、元々が、「たいていの大多数の人々は似たり寄ったりのニーズを持っている」ことを前提としたマスマーケットに対して画一的に商品やサービスを提供する事業である。なおかつ、そうした大前提が近年になって崩れ、ニーズも提供される競合商品・サービスも多様化している分野である。

したがって、「顧客視点が劣化」しているというわけでもないかもしれないのである。市場が変化しているだけで、私達の顧客視点のあり方は変わらないのかもしれない。実際、海外の日本型マネジメント論でよく言われるのは、典型的には、日本企業は世界を画一的に扱い(あるいは世界の画一的ニーズに着目し)、特定の工場で集中的に生産し、利益よりも市場シェア重視で市場に参入し、スケールエコノミーでコスト優位性を作る、というやり方が日本型の戦略である、と。それが実際の姿(だった)とすれば、顧客視点はそんなに強くなくても構わない。むしろ、外国という、全然想像もつかない市場で顧客理解などという難題に取り組まなくてもいいやり方かもしれない。実際、日本では「外国」というものがアメリカ合衆国や中国といった大国があって、その他の国はそうした大国の延長線上にあるようなものだろうという暗黙の誤解があるように、私には見える。グローバライゼーションが進行し始めてから久しいが、この点は全く変わっていないように見える。

逆に言えば、これは洋の東西を問わず、顧客理解の度合いも組織的な強さを決定付ける要因の一つなのではないかと思う。


宮田 丈裕 (当社代表)




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