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【事例】某産業機械メーカー(前編):イノベーションへのあまりにも冷めた空気

ご相談をいただいたのは、産業機械のグローバル企業の技術部と人事部。ニッチと言っていい分野で高い市場シェアを持ち、日本法人は数百名の従業員が働いている。


この会社では、技術部発の新製品がしばらく出せていない状態だという。そこで、イノベーション創出の方法を学ぶ機会を作りたいというご相談だった。いわゆる「10%ルール」のような、勤務時間の一定割合を自由に、個々人の好きなテーマを深掘りをすることにあてる試みも以前にはなされたが、効果はほとんどなかったという。社長も技術部トップも新製品開発を奨励しているものの、現実に前に進んでいかない状態だった。技術部トップの方は、「やっていいと言われても、どうしたらいいのか分からない状態なのではないか」という仮説に基づいて学ぶ機会を作ろうと発案された。




このための企画を考える段階で色々とお話を伺った中で、私は私なりにいくつかの仮説を持つに至った。まず、技術部員の個人個人に新製品開発の能力があるかどうかとは関係なく、その発揮を阻害する組織的な要因があるのではないか、というものである。もっと具体的に言えば、この会社の事業ではプロジェクト単位で動くことがほとんどで、顧客企業から受注すると、技術部員はそこの工場に同社の製品あるいは技術を導入するために注力する。


このような産業機械業界だけでなく、IT業界(具体的にはシステムインテグレータ業界)や建設業界などもそうだが、プロジェクト単位で動く企業に非常に多いのは、「単年度黒字文化」とでも呼ぶべきものの存在である。それは、近年のプロジェクト会計が厳しくなった背景もあり、プロジェクト単位で利益を出すことを至上命題としており、そうすると基本的に1年度の中で黒字を出すことが求められる。


これは当然と言えば当然のことなのだが、イノベーション創出においては阻害要因になり得る。つまり、利益を出すまでの期間があまりにも短すぎるためにイノベーション創出のための実験期間がほとんど取れなくなるからである。この傾向、あるいは圧力はマクロ経済がデフレーションの傾向が強くなれば尚更強くなる。キャッシュの価値が上がってしまい、投資資産として保有すると、平たく言えば損になってしまうからである。さらには、コロナウィルスの問題によってデフレーション傾向は加速している(ご参考:日本経済研究センター『コロナ下でのデフレ加速』)。


つまり「単年度黒字文化」が阻害要因になるのは、会社の大部分がプロジェクト単位で動いているので、短期間で黒字を出せないことが暗黙のうちに「悪」とされる風潮があり、より長期的な視点で事業を育てることが一般的に難しくなるからである。デフレーション経済だと尚更その傾向が強くなる、ということである。


「学ぶ機会を作る」ことも結構なのだが、「彼らが学ばなければいけない」と頭ごなしに決め付けるのは危険でもある。できない原因が組織文化やマクロ経済にある可能性が十分にあるからだ。したがって、イノベーション創出のプロセスや条件を示しながら、自分達がどういう状態にあるか、どうしたらそれが実現できるかを議論しながら共に考えるような場にする必要があると私は考えた。なので、「研修」ではなく、「ワークショップ」という形式にさせたいただいた。


ワークショップはおよそ1ヶ月毎に4回(×1日)にわたって行ったが、第1回で私はちょっと驚いた。約20名の参加者の皆さんの温度があまりにも低かったからだ。イノベーションに関する研修やワークショップは、内発的動機が極めて大事なので、私達は楽しい雰囲気を作って行うし、インタラクティブに行って個々の発言を頭ごなしに否定することは決してしない。突拍子もないアイデア、冗談、私語を出来る限り奨励する。そういう雰囲気を全ての人が楽しめるわけではないが、全体的に言えば楽し気で、なおかつ、本気で考えようという真剣さも共存するのが通常なのだが、今回はとにかく反応が薄かった。質問を投げかけても返答が極めて少ない。笑いも少ないし、反応そのものが少なかった。非常に冷めた空気で、ワークショップが終わった途端に無言で立ち去る人が多かった。


別の記事として「研修で人は育たない」でも書いたが、そもそも研修というものがプロダクトアウトに企画されるケースが多いので、個人のニーズに結び付いていないことも多い。しかし、元々技術が好きな人が、発想の転換や創意工夫で大きく注目を浴びる可能性があるという話がそもそも嫌い、あるいは苦手であるというケースはそんなに多くはない。


このような1回目の状態は、レベルとしては想定以上だったが、方向性としては予想通りだった。なので、2回目で予定していた、組織的な阻害要因を議論する時間をさらに重視することにした。具体的には、弊社の「イノベーション組織診断」をやっていただいた上で、会社の悪口にもなりやすいが、それも全く構わないとして本音が出やすいように十分な時間を小グループに分けて議論していただくことにした。


(続く)


宮田 丈裕 (当社代表)




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